まど・みちお100の世界

詩人 まど・みちおの原風景

今の景色

すべては、ここから。まどさんの生まれた場所―生家跡―

生家跡

一見どこにでもある住宅地の一角。
見過ごしがちだが、自治会館、駐車場、二階屋へとつづく一帯に、かつて、まどさんの生家があった。
当時の地名は徳山町西辻(現在・周南市辻町)といった。まどさんの誕生は、1909年(明治42)11月16日。時代は明治まで遡る。このあたりは一面、田畑が広がる里地であった。しかし、生家沿いの道には家々が建ちならび小さな商店も軒を連ねていた。街でも田舎でもない。生活するのには、ちょうど良い環境であった。
さて、まどさんは、父、母、兄妹。それに祖父母と暮らしていたが、5歳の時、父が将来の生活を考え、まどさん一人を祖父母のもとへ残し台湾に渡ってしまう。「置き去られた」。その自己嫌悪になった少年の心を紛らわし、励ましたのが、生家周辺に広がっていた自然であった。やがて、まどさんに「人も自然も物もみんな同じ」という特別な価値観が芽生え始める。この頃の体験が詩人まど・みちおの世界観を育んだといわれている。そして、9歳でまどさんも台湾へと旅立っていく・・・・・・。その後、生家は、1977年(昭和52)都市計画によって姿を消した。
顧みると、写真右隅の二階屋と同じところに生家の2階があったらしい。まどさんは、そこから徳山湾の夕焼けを見るのが好きだった。今も昔も変わらないもの。それは、やはりあの日と同じ真っ赤な夕焼けである。

(周南市美術博物館館長 有田順一)
かるちゃあ通信花畠2009年5月号掲載

無限の音、永遠の響きを発見「福田寺」

福田寺

まどさんの生家跡(周南市辻町)から旧道を北にあがり、幼稚園の手前を右に曲がると東川に出る。さらに橋を渡ると小さな道が四方にのび、崖づたいの道を北に進むとそこが福田寺である。今ではその面影もないが、当時は、東川までは彼岸花が咲き乱れ、橋を境にスカンポが群生していた。まどさんは、この道を祖父とともに墓参りに通ったのである。

福田寺は、江戸時代前期、金甫和尚が開いた曹洞宗の寺で、石田家の墓もここにあった。
まどさんは、5歳から9歳まで(大正4年から大正8年まで)父が仕事をもとめて台湾に渡ったことから、両親と兄妹は台湾で、まどさんは祖父母のもと徳山で暮らすことになった。
「朝、起きると一人残されていた」。その置き去りにされた衝撃は今も脳裏に焼きついて離れない。そんな自暴自棄になるまどさんの心を癒したのが、生家沿いに広がる自然であった。逆境にあっても草木や虫や動物と触れあうことで、まどさんの感性はしだいに研ぎ澄まされていった。現在、詩人としてある発芽のようなものがあらわれてくるのである。
なかでも福田寺は、その象徴的な出来事がおこった場所である。
実は、祖母は別居してすぐ亡くなってしまう。祖父と二人で祖母の墓に参るのだが、それは決まって物悲しい日暮時だった。山門から入り本堂の裏にまわると墓地があり、その一番奥に雑木林があった。その林の前に石田家の小さな墓があった。墓といっても現在のような立派な墓石ではなく、緑色の石ころが置いてあり、その前に竹でできた花筒が2本立っていただけである。その時の様子を、昭和15年に発表された「幼年遅日抄」からたどってみよう。

お祖父さんが枯れたお花を捨てに行かれれば、私は竹筒に水を注いだ。ドレミハソラシドレミハソラシと、土の底から雲の遠くへ昇つて行くものがあつた。とり残されたもののやうに、私は耳を澄ますのだつた。(「お墓まゐり」より抜粋)

ここで、ドレミハ・・・の表現に着目してもらいたい。確かに筒状のものに水を入れると瞬間、笛のような現象がおこることがある。しかし普通の人ならただそれだけのことで別に気に留めることはない。まどさんは、そこに音階を感じたのである。しかも天にとどくまで永遠につづく音階である。この繰り返し、すなわち連続性の発見は、すでに少年の自然観察の域をこえていた。まさにその先にある独自の創造世界が息づいていたのである。さらにいえば、そこは祖父と二人、人けもない寂しい墓地である。もしこの年齢で、生死観が目覚めていたとしたなら、まど芸術の骨格はこの徳山時代、すでに出来上がっていたのかもしれない。
その、まどさんのすごい記憶によれば、このドレミハ・・・の発見は、大正6年、7歳頃というから驚きである。
(周南市美術博物館館長 有田順一)
かるちゃあ通信花畠2009年10月号掲載
今の景色

まどさんの街、山口県周南市辻町(旧 徳山町西辻)

まどさんの街、山口県周南市辻町(旧 徳山町西辻)

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